渡部安世(わたべやすよ)
中学生頃から難聴が発症し、感音性難聴と診断される。以降も聴力が落ち続け、30歳頃に失聴。難聴者団体に入会し、電車のバリアフリー活動を皮切りに、施設・交通のアクセシビリティに取り組む。現在、移動等円滑化評価会議の当事者委員として、関西国際空港や大阪・関西万博に関わる。一般社団法人全日本難聴者・中途失聴者団体連合会情報文化部員。
私は中学生頃から聞こえがおち、高校生になると高い声の友達の話が聞こえなくなっただけでなく、会話の一部が言葉として聞き取れなくなりました。それまでに知っていた難聴からはかけ離れていたため、脳に問題があるのではないか、これからどのように生きていけばいいのか分からず、怖くて、家族にも言えないまま、ごまかして暮らしていました。
夜には高音の耳鳴りが続き、「この高い音が昼間に聞こえたらいいのに」「いっそのこと全く聞こえなくなればいいのに」と泣きながら耳を殴るほど精神的に追い込まれました。友達から「ちゃんと聞いてよ」と言われ、家族からも「集中して人の話を聞きなさい」と言われ、集中しても聞こえない辛さを誰にも言えず、コミュニケーションを避けるようになり、人との良好な関係を築けない『空白の10年』を過ごしました。
障害等級に届かない頃に、電車の遅延に遭いましたが、放送が聞き取れませんでした。文字情報がなかったため、「今までにも聞こえない、聞こえにくい人がいたのに、なぜこんなに情報がないのか」「聞こえない、聞こえにくい人はお客様ではないのか」と、疑問を感じ始めました。また、ほぼ同時期に耳マークに出会い、「難聴であることを言いやすい!」と感動し、耳マークの普及活動をしたく、聴覚障害者情報提供施設に相談に行ったところ、あれよあれよという間に、当事者団体で電車のバリアフリーに取り組むことになりました。電車のバリアフリーに焦点を当てた理由は、「公共交通機関」であること、そして、多くの人が利用するため、駅係員の聞こえない、聞こえにくいお客様への接遇や、文字での情報提供を見て、他の乗客も、どのように接すればいいか、に気付いてくれるのではないかと、一石二鳥を狙ったためです。最近では、文字情報は増えましたが、無人駅での安全安心をどのように守るのか、事業者とともに考えていきたいと思います。
20年ほどフルタイムの仕事をしながら土日問わず活動を続けていますが、聴覚障害を取り巻く問題は、音があるところ、声があるところに発生し、その複雑さに心が疲れることもあります。そんな時に胸に浮かぶのは、父の目です。
父は幼少の頃からの難聴で、家族とのコミュニケーションがうまく取れず、私も疎ましく思い、避けていたことがありました。ある日、母と私が話しているのをテーブルの向こうからじっと見ている父に対し、話すことはできるのだから話しかければいいのに、と思っていました。自分が難聴になって、やっと分かりました。話しかけても、かえってくる声が聞こえず、会話にならないのだと。それがどれだけ寂しいことか、辛いことか、今なら分かります。<聞こえる自分>が傷つけた父は、今では<聞こえない自分>です。どれだけ自分が浅はかだったか、そして、人生において、聴覚障害というものの重さを思い知らされました。この経験が私の原動力です。
本年4月から障害者差別解消法の合理的配慮の提供が法的義務となります。合理的配慮や環境の整備というのは、事業者が今まで「お客様」から除外してきた人たちと人権に向き合い、ニーズに応えていくことであり、障がい者への特別な取り扱いではありません。多様なニーズに応えられる新しいサービスを生み出そうと奮闘する事業者が増えることを願ってやみません。
胸に浮かぶ父の目が和らぐよう、「聞こえなくても聞こえにくくても大丈夫」といえる社会に変えていけるよう、お力添えのほど、お願いいたします。