荒川陽子(あらかわようこ)
先天性の右足形成不全により、生後10か月で大腿骨切断手術。2歳で義足をつけて歩き始め、小学生以降は片足で水泳やスキーを楽しむ。現在は出版社に勤め、保育・幼児教育や発達障害、医療的ケア児関連の書籍制作を担当。「先天性四肢障害児父母の会」に幼少より参加し、今は広報係としても会に関わっている。高校生男子の母。写真は、スキーのアウトリガーを持っているところ。
※掲載者注:写真の著作権等の関係で写真はウェブには掲載しておりません。
私が生まれたのは50年以上前になります。右足がほとんどない私を見た産婦人科医は、母に「この子は一生歩けない」と“宣告”し、母に大きなショックを与えてしまいました。なぜ産科医がそんな余計なことを言ったのだろう…?と思うのですが、当時は「子ども用の義足」が日本になかったので、医者でもそういう認識だったのかもしれません。
もちろんインターネットもない時代。母は必死にあちこちの医療機関などをまわって情報を探し、(いまはなき)東京都補装具研究所にたどり着きます。わが国でも初期の小児義肢装具開発研究の一環として、義足を作って歩行訓練を受けさせてもらいました(当時の論文や、義肢装具士の最初のテキストには私の事例も載っているらしいです)。子ども時代は毎年義足を作り替えますし、たびたび修理もあるので、研究所のあった新宿区の戸山には何度も通いました。所長だった加倉井周一先生(故人)や土肥徳秀先生をはじめ、義肢のエンジニアやリハビリ担当の先生方には、10歳頃まで本当にお世話になりました(その頃はまだ義肢装具士や理学療法士などの国家資格はありませんでした)。
おかげで、「歩けない」どころか、生活用の股義足で走り、跳び箱を飛び、自転車を片足でこぎ、水泳は片足で3種目100メートル泳ぎ、木登りをするほど活発になりました。負けず嫌いだったので、小学校で縄跳びが流行った時は「後ろ二重跳び」「ハヤブサ」までやって足を痛め(常に片足で跳ぶので)、ドクターストップがかかり、悔し涙を流しながら「なんで私の足は他の人と違うんだろう?」と悩んだこともありました。
その頃に、幼少から参加していた障害児と親の会(「先天性四肢障害児父母の会」野辺明子さん設立)が企画した安田峯生先生(当時、広島大学医学部の発生学の先生)の講演を聞いて、ヒトの発生の過程や、身体形成の「ミス」が起こるのは確率の問題であるという話に妙に納得してしまい、「そのミスが、妹・弟や周りの友達でなくて私に起きたのであれば、まあいっか」と思えて、それ以降は悩まなくなりました。
社会人になってからは、左アクセルの改造車限定で免許を取り、1本足でアウトリガーを使ってスキーをし、社員旅行で行ったハワイのワイキキビーチや、新婚旅行で行ったカリブ海の島で義足を浜辺に置いて海で泳ぎました。妊娠中は、義肢装具士の臼井二美男さんのサポートで股義足で妊婦ライフを送り、産休ぎりぎりまで働き、無事に出産しました。子どもももう高校生になり、手が離れましたので、最近では狩猟免許(わなと網)を取りまして、私を狩猟に連れて行ってくれる方を募集中です(笑)。そんな感じで、義肢やさまざまな道具、テクノロジーのおかげで、あまりハンディを感じることなく、アクティブに生活することができています。
話は変わりますが、前出の「先天性四肢障害児父母の会」(https://www.fubonokai1975.net/)という会の運営にも関わっておりまして、「いのちと権利チーム」にて、出生前検査や強制不妊手術裁判などの課題を追いかけています。周囲でも、障害児を産んだことのある女性や障害のある当事者が、周囲の人から出生前検査を勧められたり、受けてみたいと考えたりするということも耳にします。また、私のような四肢欠損は今ならエコーで発見できますので、もしかしたらすでに、産むか産まないか、選択を迫られているカップルもいるかもしれません。そうした時の検討材料となるように、四肢欠損の子どもの生活や成長、家族の思いなども、医療従事者やコメディカル、一般の人にも広く知っていただく必要があると考えています。会が来年設立50周年を迎えることもあり、広報係としても情報発信をしていきたいと思います。