第3回RI会議から総合リハ研究大会へ

「新ノーマライゼーション」2024年11月号

松井亮輔(まついりょうすけ)

首都圏在住の障害分野の一部の関係者が、情報交換、交流や連携を目的に、1977年に都内でリハビリテーション交流セミナー(以下、リハ交流セミナー)を開催することになったきっかけは、1965年4月に日本で初めてのリハに関する国際会議といえる、第3回RI汎太平洋会議(以下、第3回RI会議)です。同会議は、国際肢体不自由者リハビリテーション協会(現・RI)と財団法人日本肢体不自由者リハビリテーション協会(現・リハ協。第3回RI会議の準備と国内におけるリハ事業の振興を図るため、1964年に設立)が共催しました。

1. 第3回RI会議のインパクト

同会議は、「リハの具体的実施」をメインテーマに、全体会議と分科会から構成され、全体会議では、「途上国におけるリハ事業の具体的実施」等の基調講演が、また分科会では、義肢等を含む、医学リハ、社会リハ、特殊教育、職業リハ等の専門分野別の会議に加え、脳性まひ、脊髄損傷、言語聴覚障害、知的障害、精神障害等をテーマに分野横断的な会議が行われました。あらゆる種別の障害者を対象とした、医学から職業までを含む、総合的なリハという新しい概念が紹介されたことなど、この会議が日本の障害分野の関係者にもたらしたインパクトは、きわめて大きかったといえます(参加者は、約1,600名(うち海外約700名))。

同会議の前年、東京オリンピックに続いて開催された東京パラリンピックでは、日本の選手の多くが、療養所等の入院患者や身体障害者更生援護施設等の利用者だったのに対し、海外から参加した選手のほとんどは、社会的に自立した職業人だったという、まさに対照的ともいえる違いが明らかになりました。マスコミをはじめ、日本の関係者がこの会議に注目したのは、そうした海外とのギャップの要因を見極め、それを埋めるためにどのような具体的な取り組みが求められるのかを検討する上でのヒントを得たい、と考えたからです。

同会議のあと、RIは、1966年には西ドイツ(当時)のヴィースバーデンで第10回世界会議、1968年には香港で第4回汎太平洋会議、1969年にはダブリンで第11回世界会議、そして1972年にはシドニーで第12回世界会議をそれぞれ開催しました。これらのRI会議に参加した日本の関係者が、国内のリハ・プログラムやサービスをさらに拡充・発展させるため、障害種別や専門分野を超えた横断的なネットワークづくりや連携の必要性を痛感したことが、1977年のリハ交流セミナーの開催につながったといえます。

2. リハ交流セミナーから総合リハ研へ

リハ交流セミナーは、1979年の第3回までは、各リハ分野の有志により組織された実行委員会が主催しました。1980年の第4回交流セミナー以降、リハ協が主催団体となり、事務局もリハ協が担当し、そして、リハ交流セミナーは、1991年にその名称が、総合リハ研究大会(以下、総合リハ研)に変わり、現在に至っています。

リハ協が主催団体になったことによる主な変化は、それまで開催地が都内に限定されていたのが、原則として都内と地方で交互に開催されることになったことや、同大会の継続性を確保するため、リハ協内に同大会の企画・実施のための常任委員会が設置され、常任委員会のもとに実行委員会が組織されるようになったこと、つまり、常任委員会が毎年開催地を決定し、開催地で組織される実行委員会により企画される大会プログラムを承認するということが、ルール化されたことでした。

13回に及ぶリハ交流セミナーを含め、総合リハ研は、これまで45回開催されていますが、毎回10数名の各リハ分野を代表する委員から構成される実行委員会が、大会のプログラムの企画から実施に至る過程に携わることで、開催地における各リハ分野の関係者の交流や連携が強化されてきました。

3. 第16回RI世界会議の成果と課題

1988年には、「総合リハビリテーション―その現実的展開と将来展望―」をメインテーマに、第16回RI世界会議が都内で開催されました。1965年の第3回RI会議と同世界会議との違いは、前者は、主として先進国における各分野のリハ実践から学び、日本におけるリハの前進に役立てることが意図されたのに対し、後者では、むしろ、日本の取り組みを海外、特にアジア地域からの参加者に紹介することに重点が置かれたことです。

それは、1980年代初めごろから、アジア等の途上国を対象とした、国際協力機構(JICA)や民間団体による障害分野での国際協力事業(途上国からの研修生の受け入れや途上国への障害分野の専門家の派遣等)が進められてきたことなどによる、途上国関係者の日本の障害分野での取り組みへの関心の高まりを反映したものでした。

同世界会議(参加者は、約2,880名(うち海外約940名))は、従来のRI世界会議と比べ、はるかに大きな成果をあげえたと各国のRI関係者から高く評価されました。しかし一方、海外から参加した障害当事者等からは、その会場となったホテルに車いす利用者等にとってアクセシブルな客室がきわめて限られていたこと、また、同ホテルへの公共交通機関(バス、JR・私鉄等)、駅およびその付属施設・設備(エスカレーターやトイレ)等、ならびにホテルや新宿駅周辺の公共施設や道路等のアクセシビリティの欠如等、障害者に配慮した社会環境整備の不十分さが問題視され、参加者の中には、日本政府や市民にその改善をアピールすべく、霞が関までデモに出かけた人たちもいました。

RIは、1969年にダブリンでの世界会議にあわせて開催された総会で、「70年代憲章:リハの10年」および障害者の住みやすい生活環境の推進を目的に「国際シンボルマーク」を採択しました。リハ協では、1979年にこのマークを商標として出願するとともに、そのアクリル板等を作成し、領布を開始しました。第16回世界会議で障害当事者等から出されたアクセシビリティにかかる抗議は、同シンボルマークの普及など、リハ協がそれまで取り組んできたアクセシビリティ推進活動について深刻な反省材料となるものでした。

4. 総合リハ研の課題と今後への期待

同大会の課題は、参加者の減少です。第1回リハ交流セミナーから第20回総合リハ研究大会ごろまでの参加者数は、500名前後だったのが、近年の大会ではその数は100名台にとどまっています。その主要因は、同大会は会員制ではないことで、大会の企画や実施にかかわる常任委員会や実行委員会の委員を除き、多くの参加者が毎年変わるため、知識や経験の継承・伝達が困難なこと、またその一方で、リハ各分野で専門化が一層すすみ、同大会が意図してきた障害種別や各リハ分野を超えた各地での交流や連携の強化といった、総論等を中心とした、いわば、一般教養的アプローチよりも、現場で即役立つ専門的なノウハウ等の深化・修得等が求められるようになったこと等があげられます。

障害者権利条約では、その第26条「ハビリテーション及びリハビリテーション」1項で「締約国は、障害者が、最大限の自立並びに十分な身体的、精神的、社会的及び職業的な能力を達成し、及び維持し、並びに生活のあらゆる側面への完全な包容及び参加を達成し、及び維持することを…保健、雇用、教育及び社会に係るサービスの分野において、ハビリテーション及びリハビリテーションについての包括的なサービス及びプログラムを企画し、強化し、及び拡張する。」と規定しています。

これは、まさに総合リハが目指してきたことであり、この条約の実施推進は、同大会の再活性化を図る上で、またとない好機会となると思われます。

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