上野悦子(うえのえつこ)
日本障害者リハビリテーション協会(以下、リハ協)創立60周年をお祝い申し上げます。
私は1988年に第16回RI世界会議が東京で開催される約半年前からリハ協に入り、国際事業に携わりました。リハ協での国際活動が国際的にも個人的にもどういう意味を持っていたのかを振り返る機会をいただき感謝します。
リハ協に入る前にご縁があって日本赤十字語学奉仕団に入り、アメリカと韓国の障害のある人を日本に招くプロジェクトに参加したのが障害のある人との出会いでした。創設者の橋本祐子さんは人を惹きつけるお話をされる方で、私が心に残ったのは「教育は感動なり」という言葉です。これはなにかに感動したことはその人の人生にとって糧となる、ということで、その後も心が動いたことがあればなぜそう感じたのかを考えるようになりました。橋本さんはまた、一人対一人の出会いの大切さを説き、そのことはその後海外の障害のある人たちとの交流においても基となる考えとなりました。語学奉仕団の先輩の一人が丸山一郎さん(故人、元国際部長)、そしてボランティア講習会の講師の一人に松井亮輔さん(前副会長)がいました。あの方々と将来一緒に仕事ができたら、と思ったことが後にリハ協で実現できることになりました。
1988年に第16回RI世界会議が、リハ協がホスト団体となって東京で開催された時、私はボランティア担当としてかかわりました。もう一人のボランティア担当、高島和子さん(故人、当時JICA研修担当)も語学奉仕団出身で、前年に私をリハ協に誘ってくれた人です。私は世界会議ではボランティアの研修プログラムの企画と配置を行いました。当時は200人の顔と名前を覚えていたものです。研修では語学奉仕団での経験を生かし、かつて受けた時と同じようなプログラムを企画させていただきました。
世界会議後には、ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業の担当とJICAから委託を受けた障害に関する集団研修のプログラム作りに携わりました。
JICA研修を実施する中で日本と研修員の国と地域の状況との違いに接し、日本のことを伝える研修は本当に役に立っているのだろうかという疑問が生じてきました。途上国の現状をよく知らずに研修プログラムを組むということに個人的にも限界を感じるようになり、アジアではどんな発展の仕方をしているのか実情をもっと知りたい、という気持ちが高まってきました。
1992年は国連・障害者の十年の最終年で、日本では最終年記念国民会議が東京で開かれ、テーマ別集会の一つに国際協力・交流があり障害分野で国際協力を行っていた約20の団体が報告しました(参考:最終年記念国民会議テーマ別集会資料集)。その結果、情報不足、財源不足という共通課題があることがわかり、1年間の準備期間を経て、1993年に情報交換・経験交流のためネットワーク、JANNET(障害分野NGO連絡会)が誕生しました。中心となったのは松井亮輔さんとAHI(アジア保健研修所、日進市)の2代目事務局長の池住義憲さんで、事務局はリハ協におかれ、私が担当しました。その翌年AHIの国際保健研修の冒頭の3日間に参加させていただく機会があり、良い意味で大きな衝撃を受けてきました。AHIでは研修参加者が主体的にプログラムを作りに携わっていて、日本のことを伝えるJICA研修の方式とは大きく異なっていました。東京に戻りAHIでの経験を報告して共感してもらい、それ以降JICAの研修プログラムで池住さんにファシリテーション研修を担当していただくことになり、国を超えて対等な立場にたって対話を促すファシリテーションの体験による研修員の変化を目の当たりにすることになりました。
1993年は国連ESCAPアジア太平洋障害者の十年の開始年。その皮切りに沖縄でNGO会議が開かれ、その結果アジア太平洋障害者の十年推進会議(RNN)が設立され、事務局長に丸山一郎さんが就任しました。事務局はリハ協におかれ私が担当することになりました。1993年から2002年には毎年アジア太平洋のどこかの国と地域でNGOによる障害問題への理解促進のためのキャンペーン会議が開かれ、準備から開催支援まで関わりました。毎年キャンペーン会議開催が可能になったのは、国連ESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)の後押し、RIのアジア太平洋の団体の協力、開催団体との関係づくりなどがあると考えられます。中でも丸山さんの推進力としての功績は非常に大きかったですし、同時にリハ協がアジアの関係者から知られるようになったという感覚ももつようになりました。
また、キャンペーン会議の終了後には現地の障害のある人とその家族を訪問して録画を撮りビデオを作成して現状を紹介しました。
第2次アジア太平洋障害者の十年は2003年から2012年までで、事務局長には松井亮輔さんが就任し、リハ協はさらに10年継続して事務局を担い、私も担当しました。第2次十年では会議開催は2年に1度となり、開催地は第1次十年が東南アジア中心だったのに対し、バングラデシュで2008年に開催したことで南アジアにも広がり、関係者とつながりも生まれました。
一方、JANNETでは1回目から研究会のテーマにCBR(地域に根ざしたリハビリテーション)を取り上げました。これは障害の問題は社会開発全体の中でとらえることで障害のある人の暮らしの向上がすすむ、というWHOが提唱する考えで、後にCBIDとして高齢者、孤立した人など障害のある人以外にも広がりをもつ概念になったことが、CBRガイドライン(2010,WHO,ILO, UNESCO他)で示されました。CBRガイドラインの日本語訳は多くの方々のご協力を得てリハ協が行いました。
また、JANNETでは2回の現地研修を開催し(バングラデシュ2008とインド2010)、農村も訪問して実情を理解し、交流する機会になりました。JANNET有志では、CBRで著名なカナダのマルコム・ピート氏の著書『CBR』を翻訳出版し5回にわたる勉強会を実施しました。監修者としてリーダーシップをとってくださったのは田口順子さん(故人、当時JANNET役員)でした。
障害のある人と専門家を含む支援者の両方をつなぐリハ協ではCBR・CBIDの推進が支援され、チャパル・カスナビスさん(WHO)、マヤ・トーマスさん(インド)、ナズムル・バリさん(バングラデシュ)など世界の第一線で活躍するCBRの専門家を招いて国際セミナーを開いてきました。その延長で2015年には第3回アジア太平洋CBR会議を東京でリハ協とJANNETとで共催しました。そしてCBRポータルサイトがDINFに置かれたことはありがたく思いました。CBR/CBIDは社会開発で行われると定義されており(引用)、その理解のためには住民の参加やファシリテーションなど地域開発への理解を深めることが遠いようで近道ではないかとの考えから、地域開発の実践者や研究者をセミナー講師に招くことも行いました。CBRにより、地域のおもしろさ、複雑さに目が向くようになりました。
これらのリハ協のアジア太平洋での国際活動、CBRへのリハ協の貢献については、RI創立100周年記念誌(eブック)にて紹介させていただき、海外に発信する機会になりました。(参考:RIのサイト)
リハ協の大きな役割のひとつは対外的に発信することというのはこれからも変わらないのではないでしょうか。情報は人がもたらす側面があることを考えると、今出会っている人や組織とのつながりを大切にし、さらに拡大していくことがリハ協の今後の発展につながることと思います。
【参考文献】
CBRガイドライン:DINF https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/intl/un/CBR_guide/index.html
マルコム・ピート著『CBR』明石書店、2008年
CBRの定義:CBR/CBID、DINF https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/intl/cbr.html
RI100周年記念誌:https://rimacau2019.org/ricentenarymemoir1922-2022/