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「新ノーマライゼーション」2025年1月号

日本障害フォーラム 副代表
(NPO法人日本障害者協議会 代表)
藤井克徳(ふじいかつのり)

日本の障害分野の歴史にあって、日本障害フォーラム(JDF)の誕生とその後の活動は、特別の意味を持つことになろう。ごく簡単になるが、誕生前後及びその後の活動に直接携わってきた立場から、誕生の背景や活動の概要をふり返り、近未来に向けての期待等について記す。最初に述べておくが、JDFへの信頼と連携を強めることは、そのままこの国の障害分野の健全な発展に影響をもたらすように思う。

まずは誕生の前後をふり返る。誕生そのものは2004年10月31日となるが(全社協ホールにて)、そこに至るまでには数々のドラマがあった。ドラマの本質を一口で言うならば、「なかなかまとまらない」だった。障害団体の大どころが、「わが道を行く」を譲らなかったのである。曲折を経て、変化の兆しが見え始めたのは1990年代も後半だった。それを象徴する記述がある。板山賢治の述懐で、「不信と対立、非難と中傷の風潮が色濃かった障害関係組織の相互交流、理解が深まり、連携、協力の気運が高まっています」と書き残している(月刊『ノーマライゼーション』1997年5月号)。官民双方に籍を置いた板山であり、的を射ているように思う。

「まとまり」を醸成させたのは、いくつもの合同もしくは共同の取り組みだった。主なものとしては、「国連・障害者の十年」の最終年キャンペーン(列島縦断キャラバン)、「アジア太平洋障害者の十年」(1993年~2002年)を国連に提唱するようにとの日本政府への申し入れ、「アジア太平洋障害者の十年」期間中の各国訪問、障害者権利条約(以下、権利条約)特別委員会の継続傍聴、ホームヘルプ時間の上限設定問題への対処(障害当事者8団体の連携)などがあげられる。他の大小さまざまな交流を含め、こうした合同もしくは共同の取り組みは、団体間の信頼関係を確かなものとしていった。もう一つ見逃せないのが世代交代である。各団体の中堅・若手の台頭が、「まとまり」の加速に一役買ったといえよう。

次に、JDFならではの成果を概観する。枚挙にいとまがないが、代表的なものとして二つを掲げておく。一つは、権利条約に関わってである。もし、JDFが存在しなければ、権利条約はこれほどまでに日本の社会と障害分野に定着しなかったと思う。具体的には、JDFが注目したのは、権利条約をゼロの状態から創り上げていった国連の特別委員会の動きだった。ニューヨーク国連本部で開催された特別委員会には、毎回傍聴団(ロビーイングを含む)を送った。並行して、日本政府に対しては、特別委員会において積極的な姿勢をとることを継続的に働きかけた。

もう一つは、障がい者制度改革推進会議に関わってである。所管は内閣府だったが、構成員の人選、毎回の会議運営、原案作成など、これらは実質的にJDFの意向のもとでなされた。

最後に、JDFへの期待のアウトラインを述べる。誕生時からの不文律だった、「団体みんなが集える共通の土俵であるのと同時に、他方で個々の団体の考え方や活動を制約しない」は、今後とも継承すべきである。

その上で、交流や活動の規範とすべきは権利条約であり、その付帯文書である総括所見である。折に触れてこのことを確認しながら、より具体的には、1.障害関連の基本政策の定期的な点検(当面は、障害者基本法の改正)、2.遅れた分野の引き上げ(精神障害分野や各種分離政策の改革)、3.予算の拡充(政府予算全体に占める障害関連予算の割合を、OECD加盟国水準の平均並みに)、4.政策審議システムの根本的な見直し(かつての障がい者制度改革推進会議を参考に)、5.国内人権機関の創設(権利条約第33条とパリ原則に則って)などがあげられる。わけても、他の人権条約体とも連携しながら、国内人権機関の創設にすじ道をつけることは、喫緊の課題といえよう。

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